「尾島より愛を」は旧群馬県新田郡尾島町のページです。
「小さな町からメッセージ」



世良田祇園祭 2006.7.22 

世良田祇園祭は江戸時代から世良田村(旧尾島町世良田、現太田市)で行われてきた八坂神社のお祭りです。現在は屋台が8台出ます。現在は7月第四土曜・日曜に行われているようです。屋台がお囃子をするのは2日間の1日目の様です。以前は7月24,25日に行われていたようです。かつては秩父、桐生とともに関東三大夜祭と呼ばれ居たそうです。昭和にはいってもとても盛んで、太田市から臨時のバスが出るほどのにぎわいだったようで、関東各地から参詣人が大挙押し寄せたようです。かつては7月24日の宵宮には、11台の屋台が、1列になって夜を徹して練って進む有様は、この世のものとも思われないほどの絢爛さであったそうです。現在は外部からの見物は少なく、露天商も出ることがありません。そのために地元の人によって支えられている状態です。見に行くととても素敵なお祭りなのです。

なぜ世良田祇園なのか
世良田祇園に興味を持ったのは、私(tack)が埼玉県熊谷市出身で、熊谷のお祭り うちわ祭りの本を見ていると
そのルーツが世良田祇園だったということが分かったからなのです。

現在熊谷のうちわ祭りは、歩行者天国、露天商等で大変な盛り上がりになっています。7月20,21,22日はにぎやかな様子です。地元ではふるさとの祭として 盛り上げようと言う雰囲気があります。祭の本やホームページも
出されています。うちわ祭の始まりは江戸時代疫病が流行ったことから、お祭りをすることになり、その際赤飯を配っていたものを途中から渋染めのうちわを配り始めてからうちわ祭と言われるようになったらしいです。

 現在熊谷のうちわ祭りでは12台の山車、屋台がにぎやかにお囃子をして練り歩き、叩き合いをするお祭りです
このスタイルは明治時代に、軍配せんべいを作っている「中家堂」の主人が江戸の山車(現在の第2本町区)を
買ってきて、そこでお囃子をしていました。当時は上之、成田村のお囃子だったようですが、その後にぎやかな
世良田祇園のお囃子を取り入れたようです。それも岡部の叩き手を頼んで居たものが後に世良田にいって習ってきたり、それを改良しながら熊谷風にしていったようです。
つまり熊谷うちわ祭り=江戸の山車+世良田祇園なのです。
そのお囃子は
伊勢崎さんてこ囃子にルーツを持ち、世良田(旧尾島町現太田市)→岡部(現深谷市)→熊谷市とわたっていったのです。
熊谷をふるさとに持つ私にとっては、とても興味深いのです。
世良田祇園 熊谷うちわ祭
屋台の違い
4つの車の屋台
方向変換はスイッチバック
彫刻は屋根にある
竹がつけてある
大きさは大型 人がたくさん乗れる 後ろ半分はほとんど舞台状態
桐生のものはさらに大きかったようである
しめ太鼓3つ 大太鼓1 鉦2〜4(小型)
提灯には企業の名前も書いてある
作りは古く揺れながら進む感じ
江戸時代に作られたもの
3つ車 
元は江戸の山車を買い受けたもの(第2本町区)
動きは良い 作りは彫刻が多く使われていて豪華
 刺繍の入った緞帳がある人形のせり上がる山車5台とそれがない屋台7台がある。
大きさは中型、
しめ太鼓3つ 大太鼓1 鉦4から7(大型)
叩き手がのるとそこは満員になる。12人くらいまで
提灯には町の名前が大きく書かれ 企業色は薄い
昭和に入って作られたものが多い

お囃子 基本的に太鼓 笛に鉦がからむ
笛の音が情緒がある
お囃子という感じがする
さんてこ囃子?
基本的には締太鼓が主らしいが実際は鉦の音が大きい。力強くたたく感じ。近くにいると耳に残る鉦の音が特徴
笛、太鼓は遠くからは聞こえない。火事のときの半鐘の
イメージが強い
叩き合いをすることから元気な感じがする
全体の
様子
(現在)
歩行者天国なし
露天商なし
人では世良田地区の人が中心
地元の人が支える
老若男女が支える
宣伝がされていない
太田市のホームページに記載がない
国道17号たくさんの露天
国道17号歩行者天国を1日半
お祭りポスター
宣伝多数
熊谷市のホームページに記載有り
商店街 地元の人が開催 たくさんの来場者がいる
商業的な要素強い
屋台の様子
動画 世良田祇園(下新町)rm形式(177kb) うちわ祭りのお囃子(弥生町)rm形式(234kb)

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