埼玉県立自然史博物館.自然史だより 第5号 1987.8

イチョウのことあれこれ

菊 池 久 雄

 イチョウは、庭園や公園に、また街路や寺社の境内など、いたるところに植えられています。そして、春の新緑・秋の黄葉・木枯しの鳴る冬のたたずまいなど、昔から四季折おりの風物詩として私達の生活になじみ深い木です。材は、きめこまかで黄白色の光沢があり、碁盤・将棋盤・そろばん玉・まな板などに利用され、種子はギンナンとして食卓にのぼるなど、生活に直接かかわりを持っている木でもあります。
 これほど身近かな植物であるのに、時節が来れば花をつけることや、さまざまな話題があることは意外に知られていないようです。
 では、花のことから触れてみましょう。
 イチョウには実がつきます。このことは、イチョウが種子植物の仲間であり、花をつける植物であるという根拠でもあります。しかし、花は特に目立つほどのものでもないので、いつ、どんな花が、どこに咲くのか気がつかないのです。
 写真A・Bは、昭和62年4月29日に撮影したものです(埼玉県深谷市)。雄花も雌花も新葉と共に伸びて、4月下旬から5月上旬に咲きます。
雄花は、多数の黄色い雄(ゆう)ずいが集り、2〜3cmの穂状の花序(かじょ)となります。雌花は、長い花柄に1〜数個、裸出(らしゅつ)した胚珠(はいしゅ)がついています。花というには、どちらもまことに飾り気のないものですが、開花後、雄花の花粉は風で雌花に運ばれ、受粉した花粉は、9月頃胚珠の花粉室で精子に変わり、その後、卵と受精します。
 ところで、種子植物で精子がみられるのは、イチョウとソテツの仲間があります。この事実を発見したのはいずれも日本人で、明治29(1896)年のことでした。その頃のわが国は、いわば発展途上の国でしたから、世界の学問の舞台で未だ名もない日本の若い学者が次つぎと発表した成果は、世界の学者を驚倒させた大発見でした。イチョウとソテツは、種子植物の中の裸子植物に属する仲間ですが、この発見は、裸子植物としだ植物との類縁関係を明らかにすることにもなりました。
 イチョウの精子は平瀬作五郎、ソテツの精子は池野成一郎という、いずれも東京大学植物学教室の先生によって発見されました。平瀬氏は大学の教授用あるいは研究用の図版を描くのが、おもな仕事でした。氏は業務のかたわら、顕微鏡の操作法や顕微鏡観察用の標本(プレパラート)作製法を身につけました。顕微鏡を通して自分で作ったプレパラートを観察し、得意の腕で克明にスケッチしたのでしょう。それが大発見のもとになったのです。池野氏も、前後してソテツの精子を発見しました。平瀬氏は、この研究でその後学士院恩賜賞を受けました。また、この発見のもとになったイチョウの木は、東京大学附属小石川植物園に現存しています。
 イチョウは、世にも稀な植物といわれ、「生きている化石」ともいわれます。原始のイチョウの仲間は、およそ4億年前に現われ、かの巨大な恐竜が全盛だった1億5千万年前頃、世界的に大いに繁茂しました。しかし、7千万年ほど前急激に衰えて、仲間のほとんどが地上から姿を消してしまいました。恐竜たちと同じ運命をたどったわけです。イチョウの仲間の化石は、世界各地から発見されていますが、現生のイチョウは、仲間が亡びてしまった中で、たった1種だけ中国大陸に生き続けたものといわれます。現在わが国に見られるイチョウは、稲作文化の渡来と共に大陸から渡ってきたとする説、古事記や日本書紀・源氏物語や枕草子などに記述が見られないことから、鎌倉時代か室町時代に渡来したとする説、また、日本原産説など多くの考え方があります。
 ヨーロッパに渡った植物のうち、イチョウほどもてはやされたものはないといわれます。イチョウを初めてヨーロッパに紹介した人は、長崎のオランダ商館付ドイツ人医師のケンペルという人でした。彼は元禄5年(1692)まで滞在し、帰国後日本紹介の本を出版して、その中にイチョウのことを図入りで紹介しています。18世紀になると、イギリス・フランス・ドイツなどヨーロッパ各地に、また、アメリカにも渡りました。スエーデンのリンネは、イギリスの植物学者から1枝を送られましたが、枝と葉だけでは、さすがの分類学の大家でも、その所属をきめられなかったということです。文学界で有名なドイツのゲーテは、植物についても造けいが深く、著書「植物変態論」の中にイチョウの記述が見られます。また彼は、ハイデルベルク城苑でイチョウを見て「イチョウの詩」を詠み、ウィルマー夫人に贈っています。
 来日した欧米の自然科学者がイチョウ並木を見ると、「ワンダフル」を連発するそうです。欧米人にとって、イチョウは遠い昔に地上から消え去った植物であり化石であるわけで、目の前にのびやかなその並木を見るとき、不思議な思いにかられるのももっともなことと思います。
 イチョウはこれまで述べたほかにも、学名や和名のいきさつ、お葉つきイチョウ、乳、火を防いだ話、ふやし方、雌株と雄株の見分け方など、多くの話題や不明なことがらを持つ植物です。この強い生命力を持った植物について、もっと深く知りたいと思っています。

(きくち ひさお・学芸部長)


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