日 欧 文 化 比 較 論
―欧州弓道普及活動の中で配慮すべき事―
改March15, 1998 . May 06, 1997
松 井 巌
教士 6段
〒492-8213
愛知県稲沢市高御堂2-23-6
メールアドレス
:i-matsui@yb3.so-net.ne.jp & BZL15142@nifty.ne.jp
目 次
1.前書
2. 日常的に出て来る問題点(現象論)
01) 単純な言葉を使うと言う原則
02) 和よりも競う事に本質がある原則
03)パワーゲーム
04) 性悪説の原則
05) 公平性・客観性の原理
06) 資格制度による公平性の原理
07) ワン・ボスの思想
08) 自由平等の思想と礼の思想
09) 神仏儒とキリスト教
10) 自然に対する理念の違い
3.文化の違いの背景にあるもの
1)大陸と島国
(1)自分を少しでも高く評価する処へ移動する。
(2)資格によって賃金を保証する。
(3)客観的で無ければコミニュケーションが成り立たない。
(4)自己主張がないと認められない
(5)共通の物差し
2)暮らしの形態・移動と定着から来る文化の違い
(1)大きな平原と山川に囲まれた日本の自然
(2)個人主義と集団主義
3)宗教と生活思想
(1)自然と宗教の関連性
(2)多神教と一神教
(3)宗教の中での自然の位置づけ
4. キリスト教と仏教の違いを考える糸口
1)工業社会の行き詰まり
2)キリスト教の悩み
3)キリスト教と仏教の違いを考える糸口
私が欧州弓道と関わりを持ったのは1986年でした。その間、頻繁なメイルのやり取りを交わし、またお互いに行き来もしながら弓道の理念を欧州の人達に理解して戴く為の活動を色々としてきました。その間に彼等の要望に基づいて、弓道の理念や基本的な文化的な違いの部分を解説する為の文献を10数編出してきました。
併せて、自動車業界に関連する当社における海外工場進出に関わる業務に関連を持ちながら、日本の文化の上にある色々な問題に直面しながら、現地の従業員との間に発生する意思の疎通に関わる諸問題に関わってきました。
これらの経験の上で、欧州の文化の渦中にある彼等に、どのような姿勢・考え方で対応すると日本の伝統的な文化としての日本弓道を正しく伝達出来るか、又セミナーなどでの指導での接し方等について、日欧文化比較の立場で整理し所見を纏めてみたい。
欧米一般的にキリスト教の影響を大きく受けている西欧の諸国の人と接触を持つ時にどんな意思の疎通を来す問題が発生しているかを、現象論的に捉えてみたい。
複雑なニュアンスを持った事を伝える事は極めて難しい。
出来るだけ単純にYES,NOに識別する話し方は、日本人にとっては、非常に難しいといえる。曖昧さを残しながら後で話し合いの余地を残す会話法が、寧ろ日本人の間では一般的であるが、その手法は西欧では全く受け入れられないでしょう。これは、通訳が入る事によって一層増幅される事があります。
明快で単純な言葉程、そして論理的であるほど、理解し易いという事で共感を得る事が出来ます。英語の語彙も日本語の語彙と比べたら比較にならない程の少なさです。
それはそれ程込み入ったニュアンスを伝える必要がないからです。必要があってもそれは実現不可能なことであるからこそ、出来るだけ単純な伝達方法を求めるのです。
違った文化を持つ人同士のコミニュケーションであり、意思伝達で間違いが起きないように確実に伝える事が一番大切な事となります。その為には単純な言葉で、論理的に話す事が要求されるのです。
大陸文化の基本は競う事になります。近隣との調和は勿論大切な考え方ですが、それは競う・闘うというものの前提としての調和です。主に利害関係による調和が中心となるでしょう。競う・闘う・勝ち負けを決める・勝者と敗者に分けると言う考え方に繋がります。
大陸の文化は、人の移動は極めて自由であり、それを阻止する方策がない。
それは人だけでなく、物も一緒です。国境線が無い訳ですから、善いものは善いのです。強いものが勝ちを納めるのです。力の論理が先にあります。道徳・倫理は僅かにキリスト教の教会がこれを受け持っていたといえるでしょう。
ましてや、次項の自由平等の精神の下では、自由に競う中での進歩があり、和すと言う考え方は非常に低いのです。勝つ為には自分を主張しなければなりません。
その力を示さなければなりません。互いに「思い遣る」という考え方は頭の中で考える理想の姿になります。
大陸文化の特徴であり、上の競う文化と大いに関係があるのが、このパワーゲームの
考え方です。競う故に、結果第一主義であり、その為にはパワー(力)が全てである。
それ故に自分が如何に他より強いかを見せ付ける行動を通常よくする。
しかし、これが弓道の世界でも聴くから、日本の指導者は注意を促す必要がある。
これは事例ですが、組織・大会を総括する欧州の称号者が自分は着物を着ていて、他
の欧州称号者に対して胴着にする様に指示したとの事です。その場には日本から指導
に範士の先生がお見えになる場でした。又日本からの指導の範士の先生の前で、他
の称号者を罵倒するかの如き物言いをしているのを見たとの事です。
これは、明らかに自分が最高責任者であり、私は貴方達普通の称号者とは違うと言う
事を、本人に見せ付け、思い知らせると共に、その場に見える日本の先生に印象付け
る為である。欧州の称号者の間でさえもこんな状態があると言う事です。
それは一般の社会の中ではもっと顕著であり、ビジネスの世界でもよく見かけます。
管理する人・管理される人が、はっきりと区別されているのです。多くの人種の違いを
含めた集団を統率する為には、指揮者が誰であるかを明確にしておかなければならな
い事もありますが、その裏側では「力を見せ付ける」という行動を人前だからこそ行うの
です。慎みとか、人に恥じをかかさないと言う礼儀作法とは全く逆の発想・習慣がある
のです。
これと類似の行動として、競技をするものが相手を威嚇するようなジェスチャーを示し
たり、勝った時には自分が相手よりも強かった事を見せ付ける示威的なジェスチャーを
するのも同様である。日本の相撲界においても、闘う前によしやるぞという仕種をしたり、
勝利したあと「やった!」と言うジェスチャーをしたと言う事でひんしゅくを買った事が在
るが、これも文化の違いであろう。相手が在って、始めて闘えたその意味で相手を称え、
感謝する態度が日本の武道の姿でありそれから見えと、これらの示威的な行動は失礼
に当るのは当然です。
これらの問題は、欧州弓道連合の組織の中で各国の弓道の間でもおきるであろうし、
各国の弓道連盟の中での人間関係の中でも起きている。力により屈服させ、相手に恥
じをかかせてでも自分が優位で在る事を示す行動と、相手の恥じをかかせない文化の
違いをどのように指導するかも難しい問題である。弓道で習った日本式の礼儀作法に
より、対応している下位の組織員が上位の組織員に対して、控えめな礼を尽くした行動
をしても、上位の組織員が西欧流の力の行動を取る為に、一体「弓道で習う礼の思想」
は欧州社会で馴染むかという根本的な質問を投げかけてくるのです。
日本人の文化では同質であり、信じる事が原則にありますが、大陸における西欧では寧ろ疑う所から始まります。相手は裏切る者・自分を利用しようとする者と言う認識の上に立って原則が成り立っています。これは山川に囲まれて人の移動が無い日本の社会では道理に外れた行いは自然の内に成敗を受けるのですが、西欧では人・物は自由に動き回ります。
異文化が自由に行き来する為に、特定の文化の中で価値が在る事が、他の文化で価値が認められると言う原則は成り立たないのです。オランダ連盟会長のハンス・デ・ベッカー氏は、自分が今住んでいる街は400の世帯数で、10以上の人種の構成になっていると言います。互いの民族間で価値観が違うと言う事は、互いに腹の中で了解し合うという事は有り得ません。必ず文字により、客観的に説明が出来る事が求められ、曖昧な事は一切認められません。また必ず発言内容は証拠となるエビデンスを残す事を前提としています。また彼と恵那の山を散歩をしている時に、農家の方が私達を家に招き入れておよばれした事が在りました。
全くの初見の方でした。ハンス氏は、西欧では見ず知らずの人を玄関内に入れる事など全く有り得ない、ましてやその人達にお茶を振る舞う等は考えられないと言っていました。人を信用する所から始まっている日本の田舎の光景にぶつかり、彼は吃驚していました。
この様に、日本の様な島国で逃げ隠れの出来ない環境では、「性善説」に基づいて相手を信用して掛かる処から始まります。約束事も文書にしなくてもそれを破る事は在りません。破ればその人が社会から葬られる事となり社会的な制裁が働きます。
しかし、欧米では2時間も移動すれば別の国に入り込みます。従って人を容易に信用する事はないのです。分かり合えない人間同士が如何に分かり合う様に努力するかが彼等の発想の原点にあります。
異国文化が隣接しあうだけに、客観性・公平性が要求されます。
日本の終身雇用と違い、労働人口が絶えず移動するだけに共通に評価出来る資格制度等が発達します。その為に公平性・客観性が民族・文化を越えて社会的に要求されると言えるでしょう。
ですから資格制度等では採点方法が決められ、評価基準が決められ、合格点水準が決められるのです。もっと言えばその時の評価に仕方や、評価点の基準まで示されます。これを私達はマニュアル方式と読んでいます。製造業の資格審査でも、評価項目・求められる水準等が非常に明確です。そして綜合点で何点以上でないと不合格とか、小欠陥が幾つ有ったら大欠陥として採点されるとかが決っています。評価に客観性が求められているのです。これは今後審査等で問題を起こしそうです。
これは、価値観の異なる文化を持った国同士で、共通の評価が出来る様にするものであり、大陸文化では一般的な方法となります。
上でも示した通り、労働人口の頻繁な移動と受入側の評価(例えば賃金の決定など)が民族・文化の違いを越えて容易に出来る事が重要です。その為に公の機関による資格制度が確立されています。これはあらゆる職能についての資格があります。
持っている資格により、何がどの程度出来るのかを判断して賃金を決めるのです。
賃金は、会社が欲しい職能と、労働者の持っている職能に対して会社の欲しい職能に対してのみ支払われ、その人の持っている潜在的な能力や経験等は評価の対象外となります。ライセンスの思想は、こんな社会の背景の中に在ります。
欧州の人には弓道の段位が、自分の修練の度合いを評価するものであるという考え方は、中々伝わらない。寧ろ、資格と考えるのが一般的です。称号者になったからお金を取って教えるのは当たり前と考えるのです。これを日本の流儀でお金を取るのはけしからぬと言って叱っているだけでは問題解決はしない。お金を払う方も当たり前と考えているからです。現に空手でも、柔道でも、剣道でも、合気道でも、どんな武道でもトレーニング・センターでは、指導料を取っているから弓道でも指導料を取るのも不思議でも何でもないのです。ましてや日本で大枚をはたいて審査を受けて得た段位です。教える資格が出来たと言われれば、お金を取って指導するのは当然と考えます。
ましてや練習場がなく、自分の敷地の中に弓道場を造り、そこで地域の人に弓道を広めている人に対してどう指導をしていくかは重要な問題です。
行政地区が弓道場を備えている日本とは全く条件が違います。
労働人口の移動とも関連し、ユニオンという労働組合の性格にも関連しますが、組織自体は命令系統は、非常にハッキリしています。自分に命令をする人は、一人だけと言う組織体制です。
組織が違っても、日本の場合には容易に横との連携・調整を図りますが、欧米の場合には必ず組織の責任者を通して実行しますから、横との連携も一旦直属の上司に上げ、上司が横の上司と連携し、その上で下に指示がなされ、始めて横同士の連携が可能になります。これは縦社会というものと少し違う内容をもっています。責任区分の切り方の違いであり、組織論の問題です。連絡・指示をするにも、日本ならばOOに伝えておいてくれ!で済むものでも、それが確実に実現されるとは限らないと考えるのが普通です。
自分は直属の上司である人以外から指示を受ける必要もないし、それは無視しても善い内容となります。定められた役割に対して忠実に役割を果たす機能により、自分に命令するのは一人だけという事になるのです。
これは生産拠点を欧米に移した企業が等しく戸惑うルールです。
例えば、アメリカのある展示会で当社の製品を展示したことが在りました。そのブースが前日遅くなっても中々はかどっていなかったのです。そこに立ち会っていた私は、ブースを作っている大工さんに、照明位置をほんの少し変える為に、配線の取り回しの変更を指示しました。それは私が簡単に出来ることでした。しかしその大工は、照明・配線は私の仕事ではない。その指示はマネージャーのOOに指示をして、そこから電気工に指示をしないと出来ないと言うのです。では 私がやると言うと電気工の仕事を取り上げる事になるからそれは出来ないと拒否されたことがあります。この様に、ほんの僅かなことでもユニオンが違う為にその場で容易に対応出来ないのです。
弓道で大切な礼の思想は、上下関係があって成り立つことです。
横一線の平等社会では、これをどのように説明したらよいのでしょう。
欧州では、伝統を重んじる長い歴史の上にある縦社会の民族もあれば、長い歴史を持ちながら通商立国として自由平等を旗頭にしている横社会の民族もあれば、長い王政の苦境の中で庶民が自由を勝ち取って自由平等に一番基本的な価値観を持っている民族もあります。欧米を一概に自由平等の横社会と断定する事は誤りがあります。かと言って、命令指示体制がいつも明確な縦社会と断定することも誤りがあります。それは国毎に違いがあり、弓道グループ毎に違いがあります。
しかし、弓道を普及させる上で大変に重要な礼の思想は明らかに縦社会での作法であり、自由平等の横社会でこそ、どの様に説明するかを注意しなければなりません。
日本の「礼の思想」の様に縦社会であるからこそ、理解出来る概念をどのように伝えるかは非常に難しい内容を持っている事を理解する必要があります。
また言葉の上でも、「上座(かみざ)」と「神座(かみざ)」の違いとか、上下の関係が即力関係を連想する彼等と、上であるが故に下に対しての心配りをする日本の慣習を含めた上下関係等を理解させる必要があります。ここまで含めた礼の思想を語らないといけないでしょう。
道場の中では、弓道を学ぶエチケットとして先生や先輩を敬う態度はあっても、そうであるから道場外でも旨く行っていると思うと大間違いである時が多いのです。ハンス・デ・ベッカー氏はこれをオランダの中で展開するのに、3年間掛かったと言っていました。
例えば、私の関連するローマにおいては礼の思想は比較的受け入れられるが、オランダは礼の思想を理解させるのに苦労をする国でした。
因みに欧米に於いては、子供も高校を卒業すると完全に親から独立します。
親と同居している人は独立心の無い欠陥を持った人間と見られるのです。親子の間柄
でさえも、日本とは根本的に違います。ですから組織の中の人間関係・社会の中の人間
関係を知っていないと、取り分け伝言等は伝わらない事があるから注意すべきです。
唯一つの宗教しか信心しない西欧の人と、神仏儒が一体となった中での弓道をどのように教えるかは問題がありましょう。
弓道の中には、神仏儒の要素が入り込んでいます。それに対して日本人は何の違和感も持っていない。欧州の人の多くはキリスト教を信仰しています。
このキリスト教と日本の宗教特に弓道における神仏儒の関連およびその考え方から来る違いをよく理解しないといけないと思います。
まずは、キリスト教を初めとして欧州の宗教は、一神教であり、自分の信じる宗派が絶対であり、他は全て邪教であり、異教となります。同じキリスト教の宗派の中でも争いが起こり、カソリックとプロテスタントの間で何故あれほど血みどろの闘いが長く続くか?また同じプロテスタントまたはカトリックの中でも宗派の違いによって、全く敵対関係を生み出すのか?
この様な宗教感覚の人達に、道場に入ると神拝(神道)をし、体配は儒教の礼の思想の上にあり、射は仏陀であると考える、弓道の本質をどのように説明をすべきか、また彼等に本当にこの様な多神教的な考え方が理解出来るか?
キリスト教と仏教の違いについての考え方の切り口は別の項で詳細にしたいと思います。
日本人は善く「自然体」という言葉を使います。
しかし、日本人の自然観と欧州の人の自然観は全く違う事を理解しないで自然と言う言葉を使っている事が多い。それは宗教の教えと関連を持っています。
キリスト教の聖典であるバイブルでは自然は人間が管理するものであり、人間の生活の為に改造される事も許されると定義しています。自然の一部として人間が存在するという日本人否東洋の思想とは根底から違いを持っている。また西欧での自然は規則的であると言う認識がある。日本における様に変化が大きく、人間の力を越えた巨大な力・エネルギーをもった侵すべからざる自然への畏敬の感覚は極めて少ない。
従って、自然と合一するとか、自然に帰るとか、自然の懐に抱かれる事の幸せ等という考え方は基本的には理解しにくい物を持っている。但し、近年は科学工業の異常な発達により自然を破壊する酸性雨の問題や、その他オゾン層の破壊の問題など宇宙のメカニズムを破壊する事への脅威を感じ始めて居る事も事実です。
文化比較をする時に、一番始めに考えないといけない問題はやはり「大陸の特性」でしょう。日本の「島国」と比較して考えると良いでしょう。その次には、宗教などの考え方の違いでしょう。更には、自然環境の違いが固有文化の違いを生んでいます。それらを上の現象論の根拠という立場で説明したいと思います。
大陸とは、国境線がなく陸続きということです。ですから人の移動は極めて容易です。
この中には、島国の日本とは随分違った価値観が育ちます。
人の移動・情報の移動と言う事は非常に大きな文化の違いを生みます。
移動する社会では、善いものが勝つであろうし、力の強いものが勝つのです。
勝った者は負けた者を徹底的に自分の配下において、勝者の論理の中に強制的に閉じ込めます。そして競う為のルールも要るでしょうし、勝つ為にルールを変える事も当然 成されます。力の論理の中でそれらは動きます。
日本の様に長い年月の間に自然淘汰される、即ち正しい事が最後には勝ち残ると言う概念はありません。正しい者が勝ち残るというのは、正しいと判断する価値観が一緒であると言う前提があってのこととなります。正しいという判断は文化歴史を異にする他民族の人にとっては必ずしも正しくないと言う原則があるからです。それは島国の閉鎖性の中で人が移動出来ない空間の中で起きる事です。
大陸と島国の差の中からの違いを具体的に述べてみます。
例えば、同じ仕事で給料の高低があれば、少しでも高い方に移動します。
日本で言う義理だとか、恩などと言う考え方は原則的にはないのですから、少しでも自分を高く評価してくれるところがあれば、そちらに替る事に全くの違和感はない。
日本では職を転々とすることは「尻が軽い」とか「辛抱が足りない」等と言って評価が
低くなりますが、大陸では能力の進展がないと評価されます。
仕事に対する対価も、仕事の種類によって給料は決められており、経験年数や勤続年数は関係がないのです。労働組合も日本の様に企業の中で存在するのではなく、同じ職種毎に全国で組織されます。旋盤工は全国統一のユニオンという職種別労働組合により統合されています。旋盤工のランクを付ける検定試験などにより何級と言えば何処の地方へ行っても、または何処の国に行ってもどの程度の技量を持っているかを共通認識しているのです。だから資格を取っては移動するのです。だから当然雇用契約も1年単位位の短期の契約になります。
従って、一つの企業に何時までもいると言う事は、能力が上がっていない事と なります。能力が上がれば、契約時に能力が上がった分だけ高く契約します。
ですから日本の企業が海外進出して、企業内教育をすると、研修が終わると何 時の間にか止めてしまうのも、企業内教育により資格を得て、それを他の会社に行って高く売りつけて給料を引き上げる材料にします。
企業に対する忠誠心はないのです。
ここに資格に対する考え方も生れるのが理解出来ると思います。資格は給料を公平 に測る物差しでもあるのです。日本の閉鎖的な労働環境とは根本的に違うのです。
段位の考え方もここに繋がります。先生だから教える資格が出来る。教えるからその 対価を得る事が出来るとなります。労働力の移動の為にライセンス(公的資格)により、技量を保証します。ライセンスは評価基準・評価方法が明確で、各国で共通になっているので、ある国で得たライセンスは、他国でも共通に認められる能力であり、評価です。
逆に言えばライセンスが賃金を決定します。それだから終身雇用ではない、期間による契約雇用が一般的となるのです。また給料を挙げようとすると、夜間の学校に行って、更に上級の資格を得て、次の職場を求める事となります。
弓道の段位・称号がこのライセンスと同一視されると、称号者となって教える資格が得られた段階で、有料のプライベート・レッスンが当たり前となります。
それらは、剣道・柔道・空手・合気道さらには茶道・華道等も、教室を開いて月謝に相当する対価を得て運営されており、何故弓道だけがという議論になり、 さらには弓道における段位の意味はと言う事に発展して行きます。
人の移動があるから、会話は誰にでも正しく伝わる事が必要となります。
単純で、論理的な明快な表現が必要とされる処です。
誤解をされない表現が必要です。誤解を受けた後修正する機会がないのです。
日本人の曖昧な表現は常に問題を生み出します。それは曖昧な表現をした人の責任となります。色々な文化・歴史背景を持った人同士のコミニュケーションであり、誤解の無い、単純な、論理的な話の筋を持っていないと、相手に自分の言いたい事が伝わらない現実は大変にシビアーです。これは今後欧州における昇段審査の方法や、その時の評価方法・到達レベルの設定なの、経験で決めている日本のやり方とは違った方法を彼等は模索する可能性があります。そうでないと客観性が確立出来ないからです。そしてそれが的中という誰にでも公平に評価出来る唯一の手段が評価の中核になることが大変に怖い考え方になると思われます。
欧米では、基本が個人と個人であり、自分の意見を持たない人は価値が無いと判断されます。これは日本における「出る杭は打たれる」とは全く対照的な事となります。
日本流に言えば、生意気な!とか出過ぎた事を!と言う場面に遭遇しますが、これは彼等の文化の中で理解をしてやらないといけないと思います。
これは基本的には競う文化と、和の文化の違いでもあります。
英語の文章の構成を考えて見てください。
S(主語)+V(述語)から始まります。「私は、―――です」の文型です。
その様に言っておいた上で、詳細を説明するのです。意見でも同じです。
先ず結論を言い、その後でその説明をします。日本語の様に、「――です」 の部分を一番最後に持って来るのは、会議に参加しているメンバーの顔色・反応を見ながら、最後の「です」を話す方式とは違います。この背景には、 意見の無い者は話をする資格がないという考え方に通じます。
また一致した意見は一つの意見でしかないのです。意見の違いの中から議論を通して理解し合うのです。ユダヤのタルムードの中には、全員一致であったならば、それは流会と言う取り決めがあるくらいです。多くの人間が居て、立場も違う人達の意見が一致する訳が無いのです。だから意見が一致するという事は力による統制等の
危険性があり、正しい判断が生れないと言う考え方に基づきます。
日本の様に根回しをして意見の一致を見る方法は、よく言えば「和の精神」 に基づく方法論として評価されますが、西欧では意見を持たない人と言う最低のレッテルが
待っている事を理解する必要があります。
従って、意見が違って喧喧諤諤が当たり前であり、それ事態には何も驚きません。
意見が出合わない事の方が心配なのです。日本とは全く逆です。
全日本弓道連盟の欧州セミナーの後で、日本の先生の発言内容の真意を問い合わせる手紙が入って来るのは、これに起因しています。通訳の翻訳の仕方の拙さもあろうが、日本語自体が持っている文章の構成や、その構成によりどちらとも取れる曖昧な発言が無いとは言えないであろう。
日本人の非常に微妙な言い回しは、彼等にとってはトリックであると言う感じ方になる時があります。
ライセンス(資格)の問題とも関連しますが、大陸であるが故に共通の物差しが必要になります。その為に一番理解し易いのは、チェックリストの考え方であり、マニュアルの考え方でしょう。これらは、評価する人により、チェック項目が替ったり、手順が替ったりしては困る為に、チェックの仕方・チェックの項目・その手順等書類にして、誰でも一緒になるようにしています。
会社などでも、標準化と言って、諸手続き・評価水準等を共通化するのが一般的です。これが科学的合理性でもあるのです。その背景に文化・歴史の違いの中での一緒に生活する為の智慧でもあるのです。ビジネスの世界でのことを例に上げると、今世界で国際規格としてのISO(International Standard Organization)でISO-9,000に審査基準に基づいて資格審査をしているが、世界中で共通の審査項目であり、合否判定の基準も統一的である。これには 要求項目水準が明確にされており、審査の仕方も評価の仕方も明確に決められている。
その他、仕事などでしょっちゅう遭遇するのがマニュアルによる評価項目・評価水準の事前決定です。これは関連する複数の文化圏の人達が互いに事実に基づいて客観的に評価し議論出来る根拠をここに求めている。それは段位の認定でも同じ考え方となる。夫々の段位に要求される項目とその到達すべき水準、そして夫々の評価点のウエート配分を明らかにして採点結果を文化の異なる人同士が客観的に説明出来る様な手法として確立される必要がある。同質文化の中での、経験に基づく、水準設定は異文化の集合体の中での評価法としては決して認められないものである。客観性が意思疎通の重要な価値観であるから 当然の帰結である。
科学的合理性とは、将にこれである。森羅万象の出来事に仮説を立てて、客観的に説明する実験により再現性・普遍性を立証し、出来れば数学式に現わし、客観性・再現性を訴える。しかもその実験による検証も方法論を持つ。偶然の現象を排除する仕組みがないと客観性を立証したことにならない。
(6)主張する事が生きる術
意見を持たない人は存在価値がないと同じく、意見を持っていてもそれを旨く主張する力・技量がないと生きていけないのです。競争原理の社会であるから当然そうなるのでしょう。
大陸では、人の移動が多いと言う事は、人は主張をしないと生きていけない事を示します。自分の正しさを主張しますし、他人と違った部分を自分の意見として主張するのです。他人との共通点を協調する日本の和の文化の対局にあります。
同じ意見は一つの意見に過ぎないとする。意見が違って始めて進歩があると考えます。欧州では、意見を求められて意見を述べられない人は話をする価値の無い人間と見做されます。自分の意見を如何に通すかと言う説得術は、子供の頃からの重要な教育内容であり独立心を養う事と合わせて、家庭教育で重要な事となっています。修辞学もそうである。如何に論理的に説明するかは人を説得する上において重要です。これは、各国からの異なる主張や提案を受け止める雅量が必要で在る事を意味する。
日本においてはその様な主張の形態は認めないと裁断する事は誤りとなる。
欧州の文化の中での日本弓道の定着は、欧州文化の価値観の中での日本文化の 咀嚼でなくてはならない。
人間が生きる為の食糧の確保は、生活の基本であり、その為の手段の違いが文化の違いとなって現われて来る。ここでは自然と人間との関わり合方の意味で、土地に密着した生活と移動を可能とする生活の違いにスポットを当ててみたい。
ヨーロッパやアメリカを廻ってみると、日本との自然の条件の違いが能く分かります。
一口に言えば、どこまでも続く大きな平原であり、日本で言えば北海道の様なものです。 そして海岸部から放れている内陸です。日本では海岸部から最も離れた場所でも、海岸線から僅か120kmだそうです。これは湿度に関係をしてきます。大西洋に隣接した国は別として、後の内陸の国・地方においては、空気の乾燥の問題と水資源が乏しい事を日本と比較して痛切に感じられると思います。この様に文化の違いを生み出す自然の違いを見てみましょう。
オランダの人達が日本へ来て一番始めに感じるのは、水が流れている事であると言います。私達には至極当然の事である水が流れるという現象がオランダの人には何故珍しいのであろう。
水が流れると言う事は、土地に高低差があると言う事です。日本の様に列島の背骨のように高い山脈が走り、海岸まで僅かに120kmと言う地形では、川は短くしかも高低差が大きいから水は勢いがある。
対するオランダは海を塞き止めてダムを造り、水をかい出してそこへ砂を入れて人間が作った土地です。国土の1/3は海面より低いのです。土地は真っ平です。風車によって水をかい出した時に始めて水は動きます。国土の中で一番高い所が海抜800mです。ですから起伏のある土地、流れる水はオランダの人には珍しいものとなります。
これは極めて象徴的な話ですが、大陸では相対的になだらかな平原です。
人も動物も食糧を求めて移動することは極めて簡単な事でしょう。
山川に囲まれて移動の出来なかった日本人の生活とは極めて違った光景が現われます。山川を自由に移動出来るようになったのは、どんなに長く評価してもこの100年間でしょう。人間が生き始めてから数万年経っています。
この100年よりも前の長い年月に培った人間の歴史を考える事が必要です。
人が移動する事が容易であると言う事は、人と競い・争い・違った文化習慣を持った者同士がコミュニケーションをする必要性が出て来るのも当然です。
日本人が水田稲作と言う素晴らしい食糧を得て、土地に定着して代々生活する中での社会では、和が強調されるのは当然でしょう。
一方、移動を前提として少しでも生活するのに条件の善い所を求めて移動し、そこに定住し、又は次の更に条件の善い所を求めて移動が容易な土地では、競う文化の中での生活のルールが育つでしょう。和は奇麗事であり、理想の姿であろう。
競う文化と和の文化は、暮らしの形態からも見る事が出来る。
一般的に、西欧の狩猟生活・日本の土地に定着した農業の生活の違いを考えてみま
しょう。一番の違いは狩猟にせよ・漁猟にせよ、一般自然界にある動物資源を人間が移動して確保して食糧にする場合には、その獲物の存在場所については個人の持つ重要な情報となり、親兄弟にも語らないのが原則です。
言えば一人当たりの収穫量が少なくなる訳です。獲物の居場所はこの様にして他人に語らないのが原則となります。人に語るのは、その収穫を得るには自分独りよりも人数を増やした方が有利と判断された時に限定されます。
その為に人は、獲物の居る場所に自由に移動をする訳です。
それに対して、日本及び東洋の様に土地に定着して土地に密着して、植物を栽培する場合には、植物の生育が気象との関連もあり、一族郎党力を併せて、気象に併せて作業をするのが一般的です。これは対象が動物の場合と、季節を伴う植物の違いでしょう。これが競う文化と和の文化の基盤にあります。
地形と自然現象と人間の生活を組み合わせるとこんな違いが見えてきます。
上記の生活の違いは、個人と集団の関係にも広がりを持つ。即ち、個人主義と集団主義の基盤でもあると言えるでしょう。
勿論、西欧が全部狩猟を基盤とした文化とは言えないのは当然です。
労働集約型の水稲稲作は、気象の変化と言う限られた時間の中で集中的にこれを処理しなければならない。台風のシーズンの前に収穫を終了しなければ1年の端正込めた労働の全てが消失する。その為に、家族・一族郎党が力を結集して作業に当たらなければならない。併せてこの背景には、日本の田畑が、平たい平野部にのみある訳ではなく、段段畑に代表される様に、斜面を使っての田畑であり、耕地単位辺りの広さは圧倒的に狭く、機械化の余地が無いくらいです。大陸のなだらかな平原の中の農作業が、機械化の方向へ進んで、単位面積当たりの収穫は小さくとも、耕地面積の広さで必要な量を確保出来るのと違いを持ちます。
狩猟生活が個人を中心とした活動であり、日本の稲作を初めとした植物性の食糧と違い、季節変化の中で収穫を追う必要はない。それは、人間の側の必要性により時間・季節を追うものであり、日本におけるように収穫の対象自体が時間・季節に関連しているのとは違いがある。主たる食糧の確保は日常のものであり、これが文化に影響を与えるのは必然であろう。
しかし勢力の強い文化に大きな影響を受けている事も事実です。
それらは、例えば日常の食事でも説明出来ます。肉は西欧の人にとっては日本人のお米に相当する主食です。肉の傍にあるパンは副食です。また、肉を主食とする大陸ですから、その結果残る皮製品が多いのと共に、弓道のゆがけなどの外から入る皮製品には多額の税金が掛かるのです。
序で言えば、植物と言っても麦の類であり、米の様には生産性が高くないのです。米の様に栄養価が高く、美味しく、生産性の高い食糧は世界的に見ても珍しいでしょう。お米について言えば、欧州の10倍の生産性と言われます。
この様に主食に動物の肉が存在しているのです。動物は食糧としての物なのです。
それにしても、人が移動することは見ず知らずの人が出入りする事となります。
外部からの進入者に対する防御方法が発達し、開口部の少ない家の形、内側に引く扉、土足での生活等などとなります。日本の様な代々同じ土地に住み、半ば親戚同士の様な付き合いをする社会ではない。欧米の人から見れば日本程無防備な家はないでしょう。又移動した所で自分の生活を始める事が出来る様に自主性の教育は徹底させます。人とコミュニケーションする力、自分で何もかもする能力等など移動をするかもしれない個人を中心として生活体系が育つのは当然でしょう。
親の保護の上で生活し、または智慧を当てにしながら生活する事は、欧米では考えられない事でしょう。
次に宗教と生活の中の思想を考えてみましょう。
宗教の原点は、恐れ・危険・病気・死などの人間の苦しみや生活を乱す自分たちの力の及ばないものへの沈静を祈る事から始まるでしょう。人間の力の足りない所を補うものとして、信じるべきものを得るでしょう。又は共通した考え方により、人が集い力を結集する事にもなるでしょうし、部族の力を結集する為の手段としての宗教も発生するでしょう。原点には、信じる事があり、信じ合っている者同士は、共通の価値観の元で連帯します。欧米ではキリスト教、日本では神道・仏教と考えていいでしょう。
その教理の違いや聖典に定められている規律・戒律により、文化の上にある思想・理念も影響を受けます。
キリスト教はその生れはユダヤ教にあり中近東の砂漠の中から生れました。
日本の神道は、厳密に言えば縄文時代の原始宗教と、弥生時代に入ってからの行政と密着した神道の時代に分ける必要があるかもしれませんが、その背景には温暖で四季の折々の自然の恵みを得た地理的特徴があります。
宗教と生活思想については、二つの側面を理解しておく必要があります。
一つは自然と生活又は人間の関係の中での人間の自然はの対応の仕方であり、二つ目は多神教と一神教の違いから来る思想の違いでしょう。
自然と人間、人間と宗教を考えてみましょう。西欧の宗教は色々な宗派に分かれていますが全般的にはキリスト教となります。それはローマ時代にキリスト教をヨーロッパ全土に広げた歴史的背景の中にあります。そのキリスト教はユダヤ教から派生しています。ユダヤ教・キリスト教ともに砂漠の中から生れました。それにマホメット教(イスラーム教)も加えて、日本の又は東洋の自然の恵みの豊かな地域での宗教と比較すると理解しやすいと思います。
日本の自然:
先ず日本及び東洋の自然を考えると、温帯または亜寒帯に属し、多量な降雨と適当な日光により旺盛な植物の繁殖があることです。それが小動物を育て、中型動物を育て、更には魚介類を育て、豊富な食糧を人類にもたらせます。
その中で、自然に感謝し、自然と共生した人間の生活が生れます。更には人間の力の及ばない自然の大きなエネルギーに対して、敬虔な祈りにより、荒ぶらないことを祈ります。
中近東・西欧の自然:
ユダヤ教の生れた中近東の自然は、灼熱の太陽であり、植物の育たない乾燥した大地です。自然は死を意味します。僅かな自然の緑及び水のオアシスは部族の生命線です。これを守る為に部族の結束を必要とします。貧しい自然の為に自然は人間により豊かなものに替える事を許します。自然は人間に隷属したものという考え方となります。日本や東洋の自然の恵みの中で感謝する中での宗教と、部族の結束を図る戒律・掟を持った宗教の違いが、実は自然の人間に及ぼす影響が根底にあるのです。
欧州の多くの宗教は、キリスト教です。キリスト教はご存知の通り、ユダヤ教から分離して宗教です。旧約聖書は一緒の物を使っています。ユダヤの宗教は本来は厳しい自然・食糧を与えてくれない厳しい自然の中で、部族が結束する為の掟を持った宗教と言えます。中近東の砂漠の中で生れたユダヤ教・イスラーム教等は文字どおり部族の結束を必要とする。従って、自分たちの信奉する神のみが正しくて、他は邪教となります。他の宗教・宗派は駆逐の対象となります。
それに引き換え、日本の宗教は元々が自然の大きなエネルギーを信仰の対象とし、太陽・月・風・波・山・海・湖・川・稲妻・大木・石等が信仰の対象でした。地域により主に祭る神が違う訳です。神の数は余りに多くて八百万(やおろず)の神と称する位です。これらの神が11月には出雲の国に集まられると言う事で神無月と言うくらいです。
この多神教的な緩やかさが、神道・仏教・儒教の併存を容易にしています。
道場で、神棚に向かった神拝をし、体配は礼の思想の上にあり儒教を基盤とし、射位に立ったら自分が仏陀となれと教えています。神仏儒が一体となっています。
歴史的には、神道と仏教が同じ敷地内に祭られている事も不思議ではなかったのです。これは原始神道が宗教理念を持っていなかったので、インドで生れた仏教の宇宙観や死後の世界観や、儒教の社会の中でのルール・儀礼等により、補完しながら、宗教として成長してきた経緯もあります。
西欧の自分たちが信じる宗教以外は、異教・邪教として排斥する宗教観とは大いに考え方を異にします。日本人からすると、北アイルランドなどの内乱で何故、カトリックとプロテスタントが同じキリスト教の間で闘いをしなければならないかが理解出来ないものが、宗教の根底にある理念の違いから当然となるのです。世界の戦争の大半は宗教に起因しています。他を排斥する宗教であるからこそ、戦闘が続くのです。
東洋又は日本の宗教同士では、戦闘がおきるのは極めて稀です。それは互いに多神教的な受け入れ母体が出来ているからではないでしょうか?
原理原則を考えると、自然が豊かな所では宗教が不毛なのかも知れない。
宗教が無くても生きて行けるのではないかという議論も出てきます。
不毛な自然の中で人間が生きて行く為の心の支えとして、部族の結束の為に宗教が必要であったと考えるならば、東洋における宗教と西欧の宗教は根本でその成り立ちが違いと言う事になります。
争いが伴う一神教と、和の中での多神教の違いがありましょう。一神教の信者の欧州の人は、初めに弓道場に入った時には何を感じたのか知りたいと思います。神仏儒の一体になった弓道に違和感はなかったのでしょうか?
上の2項でお分かりの様に、日本の神道・仏教では自然との共生に喜びを感じ、自然の懐に抱かれる事に安堵を覚える。従って宗教の中でも自然を絶対視し、不変のもの・真理として自然を取扱っています。
それに比較して、欧米においてはその基本となる聖書では、神は天上界における人間が神との約束を破ったからエデンの楽園から追放し、この世に遣わせた、そして動物・植物・そして自然を管理する事を人間に委託された。動物・植物・自然は人間に奉仕する為に存在し、自然も人間の為に改造することも許されるのです。この考え方を乗り越えない限りは禅の自然と一体になるとか、自己の内面を見る事を通して自然の摂理を悟る意味を理解する事は出来ないであろう。
序でに、自然体と言う言葉について説明を加えて置きたい。
西欧で発達した自然科学は地中海のギリシャ文化の中から出発をした。地中海の穏やかな自然の営みの中の規則性を観察する事により、その中に秘められている規則性を自然科学として発展させた。
西欧で言う自然は、穏やかで静かな自然である。
従って、樹木などの生育も自然の侭であるから、左右対称または、枝も一定の方向に規則正しくなびいている。ローマの空港を降り立って見るローマの松は左右対称形で幹の上に傘を被っている。日本の曲がりくねった松が自然であるとするのと違う。日本においては強い風の向きは絶えず変化する。これは山が複雑に存在し、季節風も絶えず変化して吹く。それ故に、色々な方向から吹く風に対して最も風の抵抗を少なくする方向に枝を動かしている間にあの複雑な枝振りの日本の松が生れる。
この自然から生れた美の感覚が、欧州の建物や庭園の中でその美を現わす。
左右対称形で在る事が最も安定感を持ち、幾何学的な美を美しさと感じる。
これを日本の事情に合わせるならば、先ず平らな土地が無い為に左右対称形の家を作ろうにも造れない。自然の地面の形状を生かすと、左右非対象が最もその土地の形に適合した形となる。
庭園においても同じである。地面の自然のうねりを利用して庭園を造る。
平らな土地がないから、庭園も左右非対象となる。
幾何学的な対象を安定とする感覚は日本では育たない。
従って、自然体も生れた侭の姿としての自然体と、幾多の厳しい試練を潜り抜けた後の最も簡素な形としての自然の形を自然体とする考え方で、後者の修行の後の無駄の無い動きに至る段階を自然体と称する意味が西欧の弓道人の自然観からは理解が出来ないであろう。
欧州の弓道人の弓道又は日本の武道に入るキッカケについて私の感じている事を要約してこの文化比較論を集結しよう。それは工業社会を通して物質を追い求めてきた社会の破綻の中から心の文化を模索し、心の文化と物質の文化のバランスを何処で取るべきかを求めている処から出発していると思います。
これは産業革命以降科学を工業に利用してきました。それ以前は科学はキリストの教えを立証する手段として、科学によりキリスト教の教えを証明する事をやってきました。宗教と科学は同一線上にあったのです。もっといえば科学と心の問題は一体でした。それが科学が独り歩きして工業という物を人工的に作る所に利用され始めて、科学と心(精神文化)は分離しました。その中で欧州の人は物質の富を謳歌してきましたが、哲学者ニーチェも指摘したように科学工業には落とし穴があったと言う事を痛切に感じたのです。
それは作り出した物質を捌く為に力による侵略と自分の市場に替えていく、戦争を産んだ事です。併せて経済力を成否の判断基準にした貨幣経済・資本主義運営・能率/効率第一の結果第一主義でした。この中には人間の本当の幸せは無いと考えた、欧州のエリート達が世界の文化を研究して、東洋に自分達と違った価値観をもつ文化の存在を知りました。
その中でも資本主義の道を歩み、西欧的な動きを取っている日本の文化に焦点を充てながら、その源流としてのインド・中国文化の研究をしました。
彼等は仏教等を学問として研究すると同時に、武道や芸道を通して日本の文化に接し、自ら体験しようとしてきました。その中核にあるのが「神秘主義」でしょう。科学で立証されないが、現実として認めざるをえない事実を彼等は「神秘主義」と呼び我々は「非科学」と呼んでいる体験に根差した事実の確認です。
これが弓道におけるヘリゲルの「弓と禅」であると思います。
だから彼等の基本的な姿勢は、武道や芸道を修練する事をとおして、欧州のが各的合理性の考え方・価値観とは違った価値観を体得して、科学的合理性の持っている欠点を補うことでしょう。こんな情熱があるから、不十分な環境の中で実現していたのです。
キリストの死後2000年経っても救世主は現れなかったと言う事、更にはキリスト教の中にある、性悪説の考え方・神と人間の契約の考え方、科学的合理性の文化と宗教としてのキリスト教の遊離であったと思います。これを東洋における禅の研究と結びついています。
そして時には神道と対比して考えています。しかし一般的には、日本の神道の構造は西欧の人には理解がしにくい様子です。それは縄文のアニミズムの原始神道と、政治と結びついた水田稲作を主産業とする伊勢神道の流れの二重構造が理解出来ないのです。
それと宗教と言えば哲学的な理念・思想を持っているのが一般的であり、アニミズムでもない、思想を持った宗教でも無いと言う所が理解が苦しむ事でしょう。特にキリスト教の理念と比較するのが、彼等の考え方のパターンであるからである。
仏教とキリスト教を対比すると次のような切り口でその違いを捉える事が出来ます。
これは、書き始めると非常な長文になると思うので、基本的な違いと考え方の切り口を先ずは提示しておきましょう。
キリスト教 仏教
@発生 自然に恵まれない砂漠 樹木が生い茂った豊かな自然
仏になれる・自分で自然の摂理発見する
(悟り)。
C宗教心 原罪の考え方 悉皆草木皆是仏性
人間は生れながらに罪を 人間は誰でも本来仏性を持って
持って生れてきた 生れてきた
D神の数 唯一の神(一神教) 自然を悟った人は皆仏
自分の信じる神のみが 仏は何人でも居る。神も何人で
正しく他は邪教となる。 も居る(多神教)
宗教戦争の原因・排他的 他の宗教・宗派に寛容
E布教 侵略的 自然普及
F科学の関係 科学は万能の神キリストの 体験の累積で非科学的
教えを検証する手段として 真理の掴み方は科学的合理
キリスト教の中で発展 ではないが、豊富な経験の上
キリスト教との分離は、 にあり、その共通抽出の意味
デカルトの機械的世界像 からすれば、数学的帰納法又
フランシス・ベーコンの は統計的と言えるかも知れない
自然支配のイデーから 方法論として科学的ではない
これらが、仏教を始めとした東洋の宗教とキリスト教を始めとした西欧の宗教との違いを考えるキーワード・切り口になると思います。
特に自然と人間との関わり合い方の違いが重要であり、4)の原罪と、本来仏性を持ち成長するに従い世俗の垢にまみれて仏性を失い、それを再発見する事が修行であり、悟りであると考え、それが成就すると仏・菩薩・観音・如来などになる事が出来ると考える所に大きな違いがある。更に一神教と多神教の差も大きいと思う。だから仏教・神道そしてキリスト教を理解する為には、仏教・神道・キリスト教そのものをどれほど勉強しても理解は出来ないと思う。それらを生み出した環境とか、歴史的背景とかを考える事が必要であろう。
又、インドの仏教と日本の仏教には大きな違いが在る事を理解する事も必要である。日本の仏教は神道の霊魂の回帰思想や循環思想が影響している。それが仏教の葬儀の考え方・墓に祭る考え方・お盆の行事等に違いとして現われているので、注意をする必要がある。
ですから西欧の弓道人が求めているものは、日本文化の中にある非西欧の考え方であり・価値観なのです。だから彼等は懸命に勉強しながら、我々の指導内容を先ず忠実に実践する所にあります。彼等の弓道を求める姿勢は、日本人の只何となくとか、たまたまと言う動機とは全く違うことであり、目的的であるのです。我々は、この彼等の要望に対して何をすべきかと言う事と、彼等の悩みはこれからの日本の悩みになる事を私は直感しました。そして日本の武道を指導する限りに於いては、その価値観を欧州の文化と比較しながら説明が出来、且つその発生の理由をキチンと説明出来なければならないと考えました。彼等の何故何故の疑問に耐えられる説明が必要であると考えました。
以上欧州へ赴いた時に遭遇する日本人が、欧州の人達の言動の中で、又は説明の仕方の中などで誤解を生みやすい点を、現象として掲げ、その上でその背景となる理由を補足説明をしました。ここでは主に「大陸と島国」「自然と人間の生活」の違いにスポットを充てましたが、まだまだ歴史的な推移や、民族性などの細かな面について書き足りない部分が沢山あると思われるが、それらは今後の別途補足することとしたい。 以上 松井 巌記