日本語について(2005/02/20)

 

昨年末、寄席を観に行く機会を得たのだが、実はその時初めて生の落語と触れ合った。そして噺家の見事な言葉捌き(とでも言えば良いのだろうか)に感動し、改めて日本語の奥深さ、繊細さ、表現力の豊かさを実感した。それはまさに衝撃を受けたと言っても大げさではない感覚だった。噺家の話す言葉を聞いていると、目の前に江戸時代の長屋が見えてくる。夫婦の会話からはその人間関係が見えてきて、まるで昔から知っている夫婦の会話を聞いているように思えてくるのだ。その時は、年末になるとよくやる「芝浜」という古典落語だったのだが、夫が出掛けていく早朝の外の寒さや海水の冷たさ、拾った財布や中のお金までが見えてくる。生の落語を聞いて、日本語について改めて考えてみるきっかけが出来た。

日本人はよくジェスチャーが苦手だと言われる事がある。これはいかにももっともだと思う。では何故日本人はジェスチャーが苦手なのか。それは、日本語の表現力の豊かさに起因しているのではないだろうか。先ほどの落語でもそうだったが、日本語には聞いているだけで、目の前に実にリアルに状況が浮かんでくるほどの表現力があるのだ。また、一つの物事に対して事細かに細分化され、非常に多くの言葉が用意されている。例えば「目」を表す言葉を少し挙げてみよう。「目」「瞳」「まなこ」「目ん玉」「目玉」「眼球」などなど、ちょっと思いついた物を挙げただけでも、これだけ表現する言葉が用意されている。つまり、日本語を使用する場合、その表現力の豊かさゆえに、ジェスチャーを必要としないのだ。日本人がジェスチャーが苦手なのは当然である。そんな日本人も、外国人相手に英語を話そうとすると、しっかりとジェスチャーを多用するのだから、この理屈は間違っていないだろう。

赤ちゃんは泣くことや笑うことでしか、感情を表現する事が出来ない。何故なら言葉を知らないからだ。人は言葉を知ることによって初めて、自分の感情を知ることになる。具体的に言うと、例えば人は「嬉しい」という言葉を知ることによって、初めてそれが「嬉しい」という感情なのだと知る事が出来るという事だ。心に湧いてきた感情が「嬉しい」というものであるとわからないままだと、それを人に伝える手段がなく、また自分でもそれがどういう感情なのかを判断することが出来ない。相手に自分の気持ちを伝えたくても何と言えばいいのかわからず、もどかしい思いをする。なんていう経験は、誰もがするものである。その逆もまた然り。相手が表現力豊かに、自分の気持ちを伝えてきても、それを受け取る側の語彙力がないと、相手の気持ちを持て余してしまう。言葉を知らない事によってすれ違いや誤解が生じ、結果的に人間関係を駄目にしてしまうなどという事も多分に起こりうるのである。

最近の事件を見ていても、その根底にはコミュニケーション不足があるように思えてならない。何かを伝えたくても、言葉を知らないから伝えられず、何かを伝えて貰っても、言葉を知らないから受け取れない。人は相手に自分の感情が伝わらない時、少なからぬ負担やストレスを心に感じる。それが引き金となってキレたり、結果的に事件へと発展してしまったりする事がないとは言い切れない。多くの言葉を知り、多くの表現力を身につけ、多くの情報を理解・分析していく力を得る事によって、人はもっと心豊かに、より自分らしく生きていけるようになるんじゃないかな。

ともあれ、ジェスチャーのいらない言葉「日本語」の素晴らしさをもっと伝えていきたい。