この間、「理想の国語教科書」という本を買った。目次のところに載っている、その本に収録された作品がとても魅力的だったからだ。シェイクスピアやゲーテや宮沢賢治といった、好きな文豪達の作品も収録されているのも気に入った。この本の優れていることは、読みはじめてすぐに感じられた。それは、収録されている作品のどれもが、心を強く引き付けられる作品ばかりだったからだ。文章がここまで人を引き付けるものなのかと、改めて感じることができた。
さて、ここからが本題になるのだが、この本を読み進めていくうちに、一つの見なれた、実際に過去に2度程読んだことのある作品に辿り着いた。太宰治の「走れメロス」である。過去2度読んだこの作品の印象は、さほど格別なものでもなかった。というよりむしろ、結局メロスがただ単に友達を危険な目にさらしておきながら、自分を勇者だとか言ってるだけじゃん。という否定的な感情しかなかった。それが今回、3度目の巡り合わせで大きく印象がかわった。いや、印象が変わったどころではない、まさに体中に衝撃が走ったという感覚だった。電車の中で読んでいたのだが、人目を憚らず泣きながら読んだ。そして過去の自分の、この作品に対する浅はかな理解力に、恥ずかしささえ覚えた。そして、読書とはこういうものなのかと、改めて思い知らされた。作品についての余計な予備知識を持ってしまうことのないように、ここではあえて走れメロスの中に秘められている、宝石のような輝くエッセンスについては伏せておくが、良書は人を引き付ける力を持っている。そして大きな影響を与えてくれる。誰がなんと言おうと、これは間違いのない事実だ。過去も現在も、そして未来もこの事実だけは変わらないだろう。
良き言葉には魔力が秘められている。
延々と続いていくような長い文章でなくとも、ほんの一行の文章でも力のある文章ならば、人の心は激しく動かされる。言葉とはそういうものだ。これを読んでくれている人達も、そんな経験をしているはずだ。それが本であったり手紙であったり詩であったりと、その形式は様々であろうが、書き手の信念・哲学・強い思いの凝縮された言葉に触れた時、その言葉がその人のそれからの人生を変えてしまう力さえある。何百年も昔の書物が、今も人の心を捉えて離さないのは、このような魔力が秘められているからだろう。
IT革命、情報時代と言われている今日だからこそ、「言葉の魔力」を失いつつある現代の人々にとって、良書とのふれあいは必須のものではないだろうか。