毎年毎年、いじめを苦に自殺していく子供達が後を絶たない。自殺はしないにしても、いじめに悩む子供達は非常に多い。いじめられた子供達が将来、いじめられたことがトラウマになってしまうケースが多いというデータもある。
よく、「いじめはいじめた方にもいじめられた方にも責任がある。」と言う事を聞くが、果たして本当にそうなのだろうか。
いじめは誰が何と言おうが「いじめ」である。いじめられた側に責任が有るわけがない。例えばいじめられた子が、普段から身なりがだらしなかったり、授業中にうるさかったり、勉強が出来なかったり、運動が出来なかったり、のろかったりしたとしても、それを理由としていじめるなどは理由にはならないはずだ。
今の日本の社会では、「他人と違うことはおかしいことだ。」というような、長い物に巻かれろ的な風潮がある。もちろん、学校という一つの社会の中でもその風潮は息づいている。だから、少しでも他と異なった行動をする者は許されない。教師が、自分が子供達を上手くまとめられない時、注意をしたり、それでも聞かないとき、体罰を行ったりすることがある(*)。どういったケースだろうか。例えば宿題をやってこなかった、遅刻してくる、動作が遅いなどの理由が挙げられる。これらの理由はいじめられた経験のある子にも共通している。そしていじめた子にいじめた理由を聞くと、大半の子は「何かむかついたから。」と言う。どうしてむかつくか、そこにいじめの本質が有るように思える。自分がいじめていることに気付いていないケースも多いが、そのようなケースについても、無意識のうちに「何かむかつく。」と言った感情を持っている場合が多い。「何かむかつく。」とは一体何に対してむかついているのだろうか。
それは「教師の言うことに(自分は従っているのに)従わないこと」に対してであると言える。教師は生徒に対して「強者」の立場であり、子供達はその「強者」の側に立とうとする。その結果として「いじめ」が行われるのだ。
教師がいじめを発見しづらいのにはいくつかの原因が挙げられる。いじめの性質上、いじめが行われるのは教師の見えない所であると言うこと、子供の側からの報告がないこと、子供がいじめそのものをふざけや遊びと錯覚していること、大人(教師)が人間の尊厳や他を認める精神、寛容を大切にした生き方、実践をしていないため、いじめという破壊的な現象そのものが視野に入っても見えないのも原因だ。その他ここに挙げなかった原因もまだあるが、このような中でいじめは起こっている。
いじめられる子に責任はない。そしていじめは必ずなくせる。これから教員になろうとしている俺自身、どんな壁にぶつかろうとも、いじめは絶対になくしていく。
最後に、いじめで亡くなって子供の遺書を載せて終わりにする。いじめがどれ程つらく、またしてはならないことなのか伝わればいい。
「家の人、そして友達へ。 突然姿を消して申し訳ありません。くわしい事については○○とか××とかにきけばわかると思う。俺だって、まだ死にたくない。だけどこのままじゃ「生きジゴク」になっちゃうよ。ただ俺が死んだからって他のヤツが犠牲になったんじゃいみないじゃないか。だから、もう君達もバカなことをするのはやめてくれ、最後のお願いだ。」
*・・・・・体罰について、人間教育の第一人者ペスタロッチは友人への書簡「シュタンツだより」の中でこのように記している。「両親の加える処罰は、日夜子供と全く純な関係で生活もせず、また彼らと家庭を異にする学校教師ないし他の教師の加える処罰とはまるきり違う。これらの教師には子供の心情を引きつけかつ確保する多くの条件の基礎が欠けている。それが教師を子供に疎くさせ、かつ子供にとって教師をこうした関係の純粋な全範囲で子供に接触している人々とは全く別のものにしてしまう。」(岩波文庫:隠者の夕暮れ/シュタンツだより)